
生き延びても地獄!幕末の「桜田門外の変」で命拾いした彦根藩士たちの残酷すぎる末路…
時は安政7年(1860年)3月3日、江戸城の桜田門外(東京都千代田区霞が関)で大老で彦根藩主の井伊直弼(いい なおすけ)が、尊皇攘夷派の浪士たちによって暗殺されます。
これが後世に伝わる「桜田門外の変」。井伊直弼らが推進した安政五ヶ国条約(※)など、国を誤らせる政策に対する怒りが暴発した結果でした。
(※)アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスそれぞれと締結した不平等条約で、治外法権(日本国内の外国人犯罪を日本の法律で裁けない)や関税自主権がない(日本だけ輸入関税を決められない)などの内容となっています。
当日は彦根藩士60名ばかりが井伊直弼を護衛しており、防戦の結果多くの者が死傷。生存者については厳しい処分が下されました。
せっかく命拾いしたのに……と思うのは現代人の感覚で、当時としては「主君を守れなかった」「忠義をまっとうできなかった」不覚悟を恥じたのでしょう。
今回は桜田門外の変で生き延びた者たちが、どのような末路をたどったのかを紹介したいと思います。
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井伊直弼の死幕末期、幕府の大老だった井伊直弼(いいなおすけ)が「桜田門外の変」で暗殺されたのはご存じの通りです。[caption id="attachment_185310" align=…
彦根藩の死者9名はどうなった?
- 井伊直弼(藩主。襲撃により死亡。享年46歳)
- 岩崎重光(いわさき しげみつ/徳之進。伊賀奉行、戦闘後に死亡。年齢不詳)
- 小河原宗親(おがわら むねちか/秀之丞。小姓、戦闘後に死亡。享年30歳)
- 加田包種(かだ かねたね/九郎太。騎馬徒士、戦闘で死亡。享年31歳)
- 河西良敬(かさい よしたか/忠左衛門。剣客、戦闘で死亡。享年30歳)
- 日下部令立(くさかべ よしたつ/三郎右衛門。物頭、戦闘後に死亡。享年39歳)
- 越石満敬(こしいし みつたか/源次郎。藩士、戦闘後に死亡。年齢不詳)
- 沢村之文(さわむら ゆきふみ/軍六。藩士、戦闘で死亡。年齢不詳)
- 永田正備(ながた まさはる/太郎兵衛。藩士、戦闘で死亡。年齢不詳)
※名前の読みや身分については、諸説あります。以下同じ。
浪士たちに討ち取られた井伊直弼はもちろん、命を擲って忠義をまっとうした者たちについては、当然ながらお咎めなしです。
彦根藩の重傷者8名はどうなった?
- 片桐権之丞(かたぎり ごんのじょう。奥供)
- 桜居猪三郎(さくらい ゐさぶろう。御供目付)
- 柏原徳之進(かしはら とくのしん。小姓)
- 草刈鍬五郎(くさかり くわごろう)
- 松居貞之進(まつい ていのしん)
- 萩原吉次郎(はぎわら きちじろう)
- 政右衛門(せいゑもん。苗字不詳、御陸尺=駕籠人足)
- 勝五郎(かつ ごろう。名前のみ勝五郎か?。御陸尺)
戦闘によって重傷を負った者たちについては、下野国佐野(栃木県佐野市)へ配流処分とされてしまいました。
現代の基準だと、重傷の定義は1ヶ月(30日)以上の治療を必要とするのですが、当時はどのように判断されたのでしょうか。
その後、彼らが生き延びられたかは、それぞれの回復力と経済力にかかっています。
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