
誤解されすぎた御用人…徳川綱吉の側近・柳沢吉保が悪役にされた理由と「忠臣」としての活躍【後編】
公平な態度を貫く
【前編】では、ドラマ等で悪役として有名な側用人・柳沢吉保のイメージが実際は誤りだったことを解説しました。
メディアが作った”偽の悪役”!徳川綱吉の側近・柳沢吉保が悪役にされた理由と「忠臣」としての活躍【前編】
【後編】ではさらに吉保の人物像を掘り下げ、「側用人」というポジションの実態についても見ていきましょう。
柳沢吉保が、将軍に対しても配慮と忠義を示していたのは【前編】で説明した通りですが、こうした公平な態度は諸大名に対しても貫かれていました。
彼は、諸大名から面会を求められても、すべてに応じる時間がないため不公平になるからと断っていたといいます。
また、身につける装束も贅沢に見えないように気を付けていましたが、城内で顔を覚えてもらうため、大名には珍しい緑がかった黄色のものを着ていたそうです。
甲府市の資料などによると、吉保は甲府藩主としても領民に慕われていました。領地で検地を行った際、石高が増えた分を一定割合で領民に分け与えており、武士だけではなく藩全体が豊かになるよう考えていたのです。
悪名の由来
吉保の悪名の由来としてよく挙げられるのが、綱吉が制定し庶民を苦しめた悪法で知られる生類憐みの令を肯定したことです。
江戸時代の悪名高き「生類憐みの令」は社会福祉策の一環だった!?暗君・徳川綱吉が本当に目指したもの
息子の吉里への教訓書で、吉保は「虫は「はう」ではなく『歩む』、犬は「吠える」ではなく「鳴く」と言うように」などと教えています。
さすがに、綱吉の忠実な家臣ではあったとはいえ、動物に人間並みの扱いを求めたのは無茶だったと言えるでしょう。
また、主君の仇討ちを果たした赤穂浪士に対し、厳しい処罰を下した黒幕とされているのも悪名を高めた要因とされています。これについて、吉保は討ち入りをした浪士を切腹処分とするよう綱吉に進言したと伝わっています。
しかしそれを示す具体的な史料は見つかっておらず、処分までの経緯もはっきりしていません。吉保は立場上、処分に関わってはいるでしょうが、それは幕閣全体で決めたと考えるのが妥当なところでしょう。